電話の音がする。
電子音は規則的に早く出ろと言うように鳴り響いていた。
頭では起きなければと思うが、体は睡眠を欲していてなかなか動かない。
もういいかと思い始めた頃ギシリと横になっているベッドが鳴り、それと同時に揺れる。
それは自分以外の誰かが起き上がった事を示していて、現在それを行える人間は1人しかいない。

のだめ…?

声を出すよりも早くパタパタと床を走る音が聞こえて、その後電話の音が消えると同時にもしもしという高い声が聞こえた。
自分と同様寝る時間は遅かったはずなのにのだめははっきりとした声で電話の相手と話しているようだった。
こうなるといつまでも自分だけ寝ているわけにはいかないから重い体を無理やり起こした。
開けっ放しのドアの向こうには白い俺のシャツだけを身に着けたのだめの後姿が見える。
白いシャツに負けないくらい白い足が綺麗でぼんやりとそれを見つめているとのだめが振り返る。
俺が起きているのに気づかなかったのか少し驚いた顔をしてその後受話器を手で押さえた。

「真一君。」
「ん?」
寝起きで翳む声で応えるとのだめは来い来いと手招きする。
立ち上がり、少し肌寒い室内に落ちていたTシャツを羽織りながらのだめに近づくとグイっと受話器を差し出された。
「誰?」
「わかんないデス。真一君に代わってって。」
朝から目に毒なくらいかわいらしく首を傾げて上目遣いに俺を見上げてくる。
思わずその頬に手を伸ばしかけたが、堪えて目の前に差し出された受話器を取った。

「もしもし?」
「真一か?」
「おじさん?」

++++++++++
「どこ行くんデスカ?」
のだめがコトンと首を傾げて俺を見る。
「俺ん家。」
「真一君のお家?」
「そう。」
あの電話から1時間。
俺とのだめはタクシーに乗っていた。
電話をかけてきたのは母方の叔父で、両親が離婚して父親とは離れて暮らしている俺にとっては父親代わりのような人だ。
昔から俺を自分の子供達同様に気にかけてくれていて、俺があまり女に興味がなく、決まった恋人を作らない事を心配していた。
そんな俺の部屋で朝から電話に出た女の子。
叔父さんの興味は十分に刺激されたらしく、正月だし彼女も連れて一度実家に戻れと命令されてしまった。
叔父さんには生活面から学費まですべて世話になっているような状態だから逆らえる筈も無い。
なのでとりあえずのだめに綺麗な服を着せてタクシーに押し込んだ。

別に俺はもうのだめを選んでいるし、他の女なんかにはまったく興味は無い。
だけど母方の実家は何代も続くかなり大きな病院を経営している家だ。
当然母や叔母、従姉妹達はみんな所謂お嬢様で、付き合いのある家も裕福な家が多い。
だから叔父達の目にのだめが少しでも良く見えて欲しいと思った。
そのままでも十分にかわいいし叔父達は家柄で人を判断するような人たちでもないけれど、万が一反対だなんて言われてのだめが傷つくのは避けたい。

そんな俺の心情にはまったく気づかず、のだめは俺の実家に行くとわかって嬉しそうにはしゃぐ。
普通は緊張したりするもんだろうに、真一君のお母さんに早く会いたいデスなんて笑っている。
そういうところものだめらしくて俺は笑って白い手を取って繋いだ。
「別にそんなにはしゃぐような事もないぞ。」
「だってーはしゃいじゃいマスヨ!真一君のおうちー!!」
タクシーは緩やかに走り、家への道を進む。
のだめは俺と手を繋いだまま、窓の外を見てアレはどーだとかこーだとか一生懸命話している。
俺の気にしすぎだよな…。
きっとのだめはすぐに叔父や母に気に入られるに違いない。
のだめに笑いかけるとすぐにのだめは満面の笑みになって俺の手をぎゅっと握った。

「ほわぁー!ここ日本デスカ!!?」

タクシーを降りた瞬間のだめはそう言ってぐるりと辺りを見回した。
所謂高級住宅地という土地の一等地にドンと構えられている屋敷は確かに東京の狭い土地から来たら目を疑う広さに違いない。
だけどその驚き方はないだろ?と思えるほどのだめは目をまん丸にして口を開けて門の向こうに見える白い屋敷を見上げていた。
「ほら、行くぞ。」
「の、のだめ、今更きんちょーしてきちゃいマシタ。」
「あほ。別に緊張する事無いから。」
急にモジモジとしだしたのだめの手首を掴み強引に歩き出すとヨロヨロとのだめは後から付いて来る。
インターホンを押し、名前を告げると無駄にでかい門が開けられ躊躇う事も無く俺は屋敷の中へと入った。
「真一君のお家がこんなに大きいなんてのだめ聞いてマセン…。」
「別に関係ねーよ。それに俺の実家って言っても、ホントは俺の叔父さんの家だし。」
「ほえ?」
緊張しているらしく少し挙動不審なのだめにそう言うと、のだめは横を歩く俺を見上げた。
そういやのだめには俺の家の事はまだ話していなかったなと思う。
別に隠してたわけじゃなくて、話す機会もなかったから俺も特に思いつかなかっただけだ。
だけど今から叔父さんや母親に会うなら話しておくべきかもしれない。
あんまり改まって言えば重い話になってしまうかもしれないからできるだけさらっと流すように歩きながら言うことにした。

「俺の両親、俺が10歳の時離婚してるんだ。だからそれからは高校卒業まで母さんの実家だったここに住んでたんだよ。」
そう言って何事も無いかのようにのだめを見下ろす。
のだめは俺を見上げて何度か瞬きをすると、俺の手をギュッと握った。
そしてにこっと笑う。
「だから先輩は甘えんぼさんなんデスネ。」
「はぁ?」
のだめの言葉に思わず立ち止まってしまう。
甘えんぼ?
俺が??

「だってー、いっつものだめがいないとお風呂にも入れないし、眠れないし、それにチューしないとガコにも行かないって駄々こねるじゃないデスカー。」
「あ…。」
のだめはニコニコと笑い、勝ち誇ったように俺を見上げている。
確かにそういうことも言った事はある。
酒に酔ってたり、無性に人恋しい時なんかに…。
だけど、今言うか?
「お母さんっこだったんデスネー。はぅん、いいなーかわいかっただろーなー小さい真一君。」
ほやーっとした顔でのだめは小さい頃の俺に思いを馳せているらしい。
なんだか無性に恥かしい。
「うるせー、もう行くぞ!」
「あ、待ってクダサイっ。」
そのままのだめを置いて歩き出すとすかさず走ってきてのだめは俺の腕にしがみついた。
心地よい重みに俺は跳ね除けることなくそのまま歩いた。

案の定と言うかなんと言うか、俺の心配は取り越し苦労でのだめは最初こそ緊張していたけれどすぐに俺の家族と打ち解けて少し気難しい従姉妹の由比子とも仲良くなった。
特に母さんにはものすごい気に入られようで早くお嫁さんに来て欲しいわーなんて言われて調子に乗っている。

まぁ、いつかはそうなるとは思うけれど。

そんな事を口に出すことも無く思い、部屋の隅ではしゃぐのだめを見ていた。
子供のように笑い、時々俺を見ては軽く手を振ってくる。
それに苦笑と共に軽く手を上げてやれば極上の笑みをくれた。

「真兄、顔緩みすぎ。」
「え?」
呆れたような声に顔を向けると、由比子の兄で俺にとっては従兄弟にあたる俊彦が声そのままの呆れた顔で俺を見ていた。
「真兄がそんな緩んだ顔してるの初めて見たよ。」
「そ、そうか?」
「由比子なんか父さんが朝から真一が彼女を連れてくるぞって大騒ぎしだしてからずっと不機嫌で、大好きなお菓子も食べなかったんだよ。真兄ちゃまは騙されてるとか言って。」
その時の事を思い出したのか苦笑する従兄弟に俺も笑う。
「大好きな真兄を取られたくないって思ってたはずなのに、真兄のあんまりにも緩んだ顔とあの人の無邪気さにすっかり不機嫌を忘れちゃってるから現金なもんだよね。」
俺や父さんは朝からご機嫌取りに大変だったってのに、と文句を言いつつも俊彦の妹を見る目は柔らかい。
あの真兄、真兄と俺の後を追いかけていた小さかった従兄弟とは思えないほど俊彦もいつの間にか大人になっていたのだと気づいた。
それは嬉しい反面、少しさびしい。
きっと俊彦だけでなく由比子も知らないうちに成長してしまうんだろうと思う。

俺が父親と別れてここに来た時、寂しいだとか悲しいだとか考えずにすんだのは2人がいたおかげだ。
自分より年下の2人に情けないところは見せたくなかったし、2人が自分を頼ってくれているから寂しさをあんまり感じずにすんだから。

だけど少しだけ俺は誰かに甘えたかった。
母さんは優しかったし、俺をよく気にかけてくれていたけれど父親と別れた母親を支えなきゃなんて子供心に思った俺は実際のところあんまり本気で甘えられなかった気がする。
そしてそのまま成長してうまく人に甘えられない人間になった俺の前に現れたのだめ。
家事は出来ないし、部屋はすぐ汚すし、変な奇声は発するけれどなかなか人に甘えられない俺の微妙なシグナルに無意識に気づいて手を差し出してくれる。
最初はただ笑顔に惹かれた。
だけどそれだけじゃない。
のだめはその存在すべてで俺を抱きしめて癒してくれるから。

その柔らかな腕は俺を抱きしめてくれる。

「真一君っ。」
のだめは走ってくると俺に勢い良く抱きつく。
それに俊彦は一瞬まん丸に目を見開いて次の瞬間には噴出していた。
母さんだって見てるし、叔父さんだって驚いた顔をしている。

だけど俺はこの腕の中の宝物を手放す気はないから、そのままそっと抱きしめた。

あ、やばい。
なんか俊彦や由比子が自分の知らないところで成長して離れていってしまうと思い始めてから少し寂しさを感じていた心。
のだめの暖かい腕にもっと癒されたくなる。
2人だけの家だったら思う存分甘えられるけれど、さすがにここではこれ以上無理だ。
なんとか体を離そうとしたけれどのだめは更にギュッと抱きついてくる。

「のだめ、眠くなっちゃいました。」
そう言って俺だけに見える位置でいたずらっぽく笑う。
咄嗟に言葉が出てこなかった俺に変わり、見事にのだめに騙されたらしい母さんがのだめちゃんを部屋で休ませてあげなさいなんて言っている。
俺はその言葉に頷いてのだめを俺の部屋へと連れて行った。

部屋のドアをパタンと閉めて鍵をかけると先に部屋に入り、ベッドに座って笑うのだめの横に腰を下ろした。
「この、嘘つき娘。」
「むぅー、嘘じゃないデスヨー。ホントにちょっとおねむデス。でもそれ以上に真一君と2人っきりになりたかったデスケド。」
「なんで?」
「だって。ちょっと寂しそうだったカラ。」
のだめの手が伸びてきて俺の髪をかきあげる。
そして頬に軽くキスされる。

ほら、やっぱりのだめにはすぐにばれる。

そのまま俺はのだめの腰を抱きベッドに押し倒すと柔らかな胸に顔を埋めた。
ただそれだけで安心する。

誰が離れていってものだめだけは傍にいてくれると信じれるから。

「どうしたんデスカ?」
「いや、なんかさ小さかった従兄弟達が知らないうちにでかくなってて俺なんかすぐに置いてかれると思うとちょっと寂しいなと思って。」
「?」
「子供の頃から一緒なんだ。ずっと一緒だったのにいつの間にか知らない場所で変わっていっている姿を見るとさ…。」

「大丈夫デスヨ。俊彦君も由比子ちゃんも真一君から離れていったりしまセンヨ。だって2人とも真一君の事大好きデスカラ。変わるのは仕方ないデス。でも大好きな人は変ったりしマセン。」

「おまえも?」

顔を上げて見上げるとのだめは一瞬首を傾げた後、笑って俺の頬を撫でた。

「のだめもどんなに変っても大好きな人は変りマセン!真一君を世界で一番愛してる事も一生変わりマセンヨ。」
チュッと音をさせて唇に落とされるキス。

「うん。知ってる。」

だけど聞きたかった言葉。

もう一度顔を埋めるとすぐに頭を撫でられる。
「ホントに甘えん坊デスネー。」
「いいだろ?」
「イイデスヨ。たくさんたくさん甘えてクダサイ。真一君の特等席デスカラネ。」
ふふふーと楽しそうに笑う声。
それに少し悔しくなって、少しぶっきらぼうな声で言う。
「…この特等席は今年1年も俺だけの場所だからな。」
「ハイハーイ。今年と言わず一生でイイデスヨ。一生分予約シテクダサイ。」
「…予約する。」
「ハイ!」

極上の笑みをくれるのだめに何度も口付けて笑いあう。
深いキスに酔い、のだめに手を伸ばしたところでコンコンと鳴るドア。

一瞬動きを止めてのだめと目を見合わせた後でドアを見る。

ああ、そうだ。
ここは家じゃなかった。

慌ててベッドから降りてドアをあけると微妙な笑みを浮かべた母さん。

「ほんと2人で何やってるのよー。鍵まで閉めて。」
「いや、別に…。」
「まぁ、いいけど。仲良くしてくれるのは良い事だし。」
「…。」
なんだか母親に恋人と一緒のところを見られるのは微妙だ。
別に悪い事をしているわけじゃないけれど目を合わせづらい。
黙った俺に母さんは少し意地悪そうに笑った。
するとのだめがピョンとベッドから降りてきてドアの隙間から顔を出した。
途端に母さんは優しい笑みになる。
なんだこの変わり身は…。

「のだめちゃん、少しは休めた?」
「ハイ!」
少しも動じることなく元気良く返事するのだめに母さんはますます笑みを深くする。

「そろそろご飯にしようと思うんだけど一緒にどうかしら?」
「頂きマス!のだめ、おなかペコペコでー。」
「そう。よかった。いっぱいあるからたくさん食べてね。食堂はあっちよ。」
「ハーイ。真一君も行きましょ?」
「ああ。」
母さんに背を押されて歩き出したのだめに小さく返事を返すとのだめの後ろにいた母さんが俺を振り返った。
その顔はまた少しいたずらっぽく笑っている。

「離しちゃだめよ。」

「…わかってる。」

今更言われるまでもないけれどそう返すと母さんは満足そうに笑った。

「真一君、早くー。」
「ああ、待てよ。」

そのまま母さんを追い越してのだめの手を取った。
それにはにかむのだめ。

この手は一生離さない。

もう一生分、予約したからずっと傍に。

そして来世の予約もいつかしよう。

end