のだめって先輩のなんなんですか??

自分以外誰もいない部屋でぽつりとそんなことを思う。

部屋の主はベルギーだったかオランダだったか…、とりあえず今ここにはいない。

部屋にあった自分の物を一つずつ乱暴に鞄に押し込みながら、後から後から溢れてくる涙を零した。

出会ってから8年。
ずーっと傍にいた。
自分の一方的な想いをぶつけていた時間より想い想われ合う時間の方が今では長くなっていたのに。
それはもうすぐ壊れようとしている。

いや、もう壊れちゃった。
ポタリと自分の目から落ちた雫が手に持っていた楽譜に落ちる。
それは2人で初めてしたコンチェルトの楽譜。
自分の書き込んだものの他に綺麗な癖のない大好きな人の字もあちこちに書かれている。

卒業して程なくして2人でコンチェルトをする機会に恵まれ、思えばあの時が一番幸せだった。

自分の仕事も増えて、先輩の仕事も順調。
少しずつ、少しずつお互いの気持ちが離れていっているような不安がコンチェルトの後から不意に
増えていった。
のだめはほとんどパリにいるけど先輩はそうじゃなくて、長い時なんか半年はどこかに行っている。
指揮者として求められ活動場所がどんどん増えていくことは彼にとって喜ばしい事だ。
自分だってそれを望んでる。
世界中のあちこちで彼の音楽が受け入れられて喜ばれる。
とっても幸せ。

でも…寂しいのもホント。

そんなこと言っちゃいけない。
我慢しなきゃ。

だって先輩ものだめのこと想っててくれてるから。

 

それだけがのだめの心の支えだったのに…

先週3ヶ月ぶりに帰ってきた先輩。
嬉しくて嬉しくていっぱいじゃれついたけど、先輩はどこか冷たくて。
疲れてるのかな?と思ってとりあえず気分だけでも楽しくなれるように一人でいっぱいおしゃべりをした。
何気なく色々話して、そう言えばコンセルヴァトワールのクラスメイトが結婚してその結婚式に呼ばれて
すごく幸せそうで羨ましかったって話をした。
別に何か含みがあったわけじゃない。
ホントに幸せそうでこっちも幸せな気分になれたことを伝えたかっただけ。
その式の後のパーティーで一曲弾かせてもらって楽しかったって言いたかっただけ。
なのに先輩は不機嫌な声で。

「そんなに結婚したいならさっさとすれば。」

その時はまだのだめは先輩が機嫌が悪いのはわかってたけど、まさかあんなこと思ってるなんてしらなくて
冗談だと思って笑った。
「先輩はまだそんな気ナイデショ?」
だって恋人ですよ。
結婚するならのだめには先輩だけって思ってたから…

だけど先輩はそんな気全然なかったんですね。

「別に俺じゃなくても結婚できるだろ。俺はそんな気ないけど…。」

すごく冷たい声で言われた。
言葉の意味が理解できなくて立ち尽くすのだめに先輩は追い討ちみたいに座ってたソファーから立ち上がって
何も言わずに寝室に入ってしまった。

そしてその次の日にはもうどこかに行ってしまった。

いつもはどこにどのくらいの期間行くって教えてくれるのに、それさえ教えてくれずに
のだめが寝ている間にどこかに行ってしまった。

のだめ何か悪いことしたのかな?
嫌われちゃうようなことしたかな??

何もわかんなくて数日家に篭って泣いちゃった。
怖くて連絡できないまま。

そして知ったんだ。

先輩にお金持ちで美人の恋人がいるって。

何気なく見たテレビで流れていたゴシップネタ。
人気急上昇中の日本人指揮者とホテル王の娘の熱愛。

画面に映っていたのは先輩ととても綺麗な女の人。

のだめと全然違う。

ああ、だからだ。
先輩はもうのだめが特別じゃなくなっちゃったんですね。

だからきっともうここには帰って来ないんだ。

のだめの心の支えが消えちゃった。

ポロリと涙が流れた。
それならそうって言って欲しかった。
お前をもう好きじゃないって。
そしたらきっとのだめの心は壊れてこんなに悲しいって気持ちを持つことなく消えられたのに。

携帯や家の電話が鳴るのが煩わしくて携帯は電源を切って、電話線は引っこ抜いた。

数日は先輩の匂いが残るシーツに包まって泣いて、今日、ようやくシーツから抜け出した。
だってもうシーツに先輩の匂いもぬくもりも残ってないから。

そこにはもうのだめの気配しかない。

ここから抜け出さなきゃ。
このままじゃ自分がダメになる。

先輩にいらないって思われた自分はもう何も価値がないけれど、ピアノを弾いていればいつかは
演奏者としては欲しがってくれるかもしれない。

バカみたい。

そんなことに縋る自分が。

だけどこの部屋で生きていくにはのだめは弱いから、ここを出よう。

ここを出てピアノを弾かなきゃ。

もう、それしか自分の価値が見出せないよ。

ぐしゃりと握っていた楽譜が嫌な音をたてた。
涙で湿ってしまったそれは、インクが滲みもう読めない。

先輩の字が読めないよ。

慌てて広げた楽譜。
最後のページにはがんばれって少し乱れた文字が書かれていた。

恥ずかしがって走り書きされたその言葉に何度救われただろう?

嫌だ。
嫌です。

離れたくないよ。

だって。

 

「まだこんなに好きなのに…。」

ペタンと床に座り込んで広げた楽譜の中のどんどん滲んでいく大好きな人の言葉を指でなぞる。

消えちゃう。
先輩の声も。
姿も。
大好きな音も。

後から後から流れ出す涙にぎゅうっと体を丸めた。

もうこのまま消えちゃいたい。

そのまま頭が痛くて辛くてどんどんと薄れていく意識に身を任せた。

起きた時、全部夢ならいいのに…と。

 

目を開ける。
どれだけ寝ていたんだろう??
明るかった窓の外はもう真っ暗になっている。

随分眠っていたはずなのにまだ頭がズキズキと痛んで手を上げて頭を押さえようとしたところで違和感を感じた。
手に感じる温もり。
誰かが自分の手を握ってくれてる。

ゆっくりと視線を動かすとそこにはベッドに突っ伏すように顔を置いて床に座ったまま寝ている人。

「先輩…」

なんで??
夢??
そんなはずない。
ずっと泣いていたから目は腫れぼったいままだし、着ている服もさっきまでと同じ。

だけど眠ったのはピアノのある部屋だったのに自分が今寝ているのはベッド。

散々昨日まで泣き続けた場所。

キョロキョロとあちこちを見回すとその動きで先輩がピクリと体を揺らした。
「ん…のだめ…?」
少し疲れが見える顔が私を見上げる。
そして泣き出しそうな不安そうな顔になった。

「おまえ、大丈夫か??本棚の横で倒れてたんだぞ?」
「…寝てただけデスヨ…。先輩こそ何で…?」

もうここに戻ってくるはずのない人。
どうしたんだろう??
何か忘れたのかな??

それとも曖昧なことがキライなあなただからのだめにきちんとお別れをしにきたんでしょうか??

「…寝てただけって…、止めてくれ…心臓が止まりそうになったんだぞ…。」
イマイチ現状が掴みきれないのだめに彼は今までと同じように優しく笑い、頬を撫でてくれる。

「なんで…」
「全然電話も通じないし、心配になって仕事が終わったらすぐに引き返してきたんだよ…。」
「…もう、戻ってこないと思ってました…。どして、戻って来たんデスカ??」
のだめの言葉に彼は怪訝そうな顔をする。
「どうしてって、ここは俺の家だろ?」

そっか、ここは彼の家。
のだめが早く出て行かなきゃいけなかったんだ。

「ごめんなさい…。スグに出てきますから!」
慌てて立ち上がろうとしたら、なんだか足に力が入らなくてふらりと体が揺れた。
それを慌てて支えてくれる大好きな温もり。

のだめのことがいらないのに。

優しくなんてしないで。

「何言ってんだ?おまえ、おかしいぞ??」
先輩は戸惑ったみたいな声を出して、だけどゆっくりとまたのだめをベッドに寝かせてくれた。
「ごめんなさい…。」
「…なんでおまえが謝るんだ?」
「明日には出てきますから…。」

「のだめ!」

いつの間にかまたポロポロと涙が零れた。
怒った顔が私を見下ろしてる。

「…まさかあんなデマ信じたワケじゃないだろうな…。」
搾り出すみたいな声にビクリと肩が揺れる。
「テレビとかで言ってることは嘘だよ。俺があんな派手な女と付き合うわけねーだろ。
それに俺にはおまえがいるのに…。」

「そんな風に言ってくれなくていいデス!のだめ知ってます、先輩がもうのだめのこと好きじゃないって!!」
「おい!」
伸ばされる手を振り払う。
結局いらないならそんな優しい手はいらない。
いくら優しくされても悲しいだけなのに。

「…、ごめん、怒鳴って悪かった。悪いのは俺だよな。不安にさせてごめん。」
「イイデス。」

もう、いいんです。

だからのだめのことはもう放っておいて。

顔を背けた瞬間暖かい腕に抱きしめられた。

「でも。」

「でもこれだけは信じてくれ。」

 

「俺が愛してるのはお前だけだよ。」

 

ギュウッと抱きしめられる。

優しい声と温もり。

夢かな。
夢だ。

きっと。

最後に神様が見せてくれた夢。

「ごめん。この間帰って来たときはちょっとムシャクシャしててお前がいろんな他の男の話ばっかり
するから八つ当たりした…。気まずいままわかれたのに急に仕事で話したことがあるだけの女と
あんな噂が出て心配になってお前に何度も連絡するのに携帯も電話も繋がらないし…。
とりあえず出来る限り早く帰ろうと思って飛行機にも乗ったんだぞ。」
抱きしめられながら聞かされる話。

その声の響きは到底夢だなんて思えなくて、たぶん真実。

不安で不安で仕方なかった心が自分で自分を追い詰めた結果、勝手な勘違いをしていた。

バカみたい。
バカだ。

本当に。

「バカみたい…。」

「お前のせいじゃないよ、俺が悪かった…。ほんとごめん。
なかなか最近一緒にいれないのに、帰ってきて俺以外の男の話ばっかりするから…、
ごめん…言い訳だよな…。」

のだめそんなに男の人の話ばっかりしたかな??
思いつかないけど、きっと彼はそう感じたんだろう。

一緒にいれないからお互いに不安になってすれ違っちゃった。

「…のだめ、先輩はもうのだめのこと好きじゃないんだと思ったら悲しくて辛くて
でもここにいるともっと辛いから出て行こうって思ったんデス。」

「…出て行くって…、まさかおまえ、あのバカデカイ鞄に溢れるほど詰め込んだのは…。」
「荷造りしてたんデスヨ…。」

はぁっと大きなため息が聞こえた。

「バカ。」
「ゴメンナサイ…。」

「いいよ…、でもこれからはまず俺に言ってくれ。どんなときでも話聞くから。」
「ハイ。」

体を回されて先輩と向き合う。

優しい顔がそこにはあって、軽く口付けられた。

「のだめ、先輩と一緒にいてもイイデスか?」

「いいよ。っていうか離れたら許さねー。」

 

「ずっと俺の傍にいて。」

 

強く抱きしめられてベッドに倒される。
何度も口付けをしてお互いを抱きしめた。

離れません。

離さねーよ。

ひとしきり抱き合った後大好きな腕に抱かれて聞いてみた。

「のだめって先輩のなんなんですか?」

「は?なにそれ??」

「別にー。聞いてみたかっただけデス。

そのまま先輩は体を起こしてのだめに覆いかぶさってきました。

「一部。」

「ほえ?」

 

「おまえは俺の一部だよ。もう離れる事は出来ないし、離すつもりもない。」

「一部?」

「そうだ。」

 

 

 

「だから…、俺と一生一緒にいて。」

 

優しいキスが降ってくる。

「…それって。」

 

 

「結婚しよう。」

 

 

 

ポロリと涙が出た。

ここ数日で出尽くしたと思ってたのに、止まることなくあふれ出してくる。

でも辛くはなくて、とても幸せ。

 

あなたの一部。
それだけで幸せ。

もうずっと離れることはないんですね。

 

「愛してます。」

 

「俺も。…だから、返事は?」

 

 

「ハイ。」

 

またこんな風にすれ違っちゃうこともあるかもしれない。
だけど、あなたの愛情を疑うことはきっともうないから。

だから喧嘩しても怒っても、離れてなんてあげません。

だってのだめと先輩はもうひとつでしょ?

 

end