試験の答案を返した日から野田がぱったりと教官室に来なくなった。
返した日にも来るかと思ったのに…。
授業には出ているし、体の調子が悪いという感じでもない。
どうしたんだ??
それにもっとおかしいのがいつも遅刻ギリギリに来て恥かしい言葉を叫んでいたのに、最近は遅刻ギリギリにも来ていない。
「そういや最近野田のヤツ、おまえに愛の告白してこねーな。」
ぼんやりと職員室で考えていると横の席の同僚の体育教師、峰が覗き込んできた。
「え…。」
「寂しいんじゃねーのか?あんなに毎日告白されてたのにここんとこパッタリじゃねーか。」
「…別に、静かでいいだろ…。」
「へー。まぁ、高校生なんて熱しやすくて冷めやすいもんだからな。もっと身近で夢中になれるもんでも見つけたのかもな。」
峰の言葉に頷く事もできず無意識に顔を顰めた。
確かにそうだ。
もう歳の離れた教師になんか興味が無くなったのかもしれない。
別に俺だって生徒なんか恋愛対象になるはずはないから助かった筈。
だけどそうとは割り切れなくて、あの恥かしい告白を俺以外の誰かにしているかと思ったら少しだけ気分が悪かった。
なんだかモヤモヤとするものが晴れなくて席を立つ。
「教官室戻る。」
「おー。俺もそろそろ部活いかねーと。」
俺の言葉に峰も慌てて立ちあがり部活の用意をし始めた。
それを置いて俺はさっさと席を離れて職員室を後にした。
放課後の廊下はほとんど生徒がいない。
たまにすれ違い挨拶を交わしながら特別棟へと急ぐ。
なんだか人に会いたくない気分だった。
歩きながら野田の笑顔が脳裏をちらつく。
がんばったなって言ったら本当に嬉しそうな顔をしたんだ。
本当にがんばったのを知っているし、もしあの日来たらご褒美に飯ぐらい連れて行ってやろうなんて思っていたのに…。
なんで来ねーんだよ!!
イライラする。
あんなにこの間まで人に付きまとってきたくせにパタンと離れていきやがって…。
強く足を踏み鳴らして校舎と特別棟を繋ぐ連絡通路まで来た時、そこから見える裏庭に良く見知った茶色の頭が見えた。
足を止める。
野田だ。
授業以外で久しぶりに見る姿に思わず窓から身を乗り出してしまう。
それによって野田と一緒にいる男の姿も見えた。
同じクラスの黒木だ。
2人はなにやら話しているようで、黒木が一生懸命何かを言っているのを野田が聞いているようだった。
こんな裏庭で2人で話すこと。
それは告白とかじゃないのか??
一気になんだかわからない汗が手のひらに浮かぶ。
なんで俺こんなに焦ってんだ??
放っておけばいい、高校生なんてそういうことが楽しみなんだから。
同じ歳同士で話も合うじゃないか。
そう頭の中で必死に何度も繰り返すのに、俺は気がついたら窓の外に向かって叫んでいた。
「野田!」
それに弾かれたように野田と黒木がこっちを見た。
「野田、教官室まで来い!」
自分でもわからぬままそう叫んでいた。
それに野田は困ったような顔をした後黒木を見た。
そしてもう一度俺を見る。
「のだめ、今日は用事があるんデス!」
「成績のことだ!必ず来いよ!!」
野田の言い分を聞かずにそれだけ言い捨てると窓から離れた。
俺は何をしてるんだ??
教官室へと向かいながらむしゃくしゃして考える。
ただあのまま野田と黒木が2人でいるのが嫌だった。
もしかしたらあいつらはもう恋人同士かもしれないけれど…。
それでも嫌だったんだ。
あの笑顔で好きと他のヤツが言われるなんて。
俺って…。
あいつの事が好きなのか?
教官室の前まで来てドアに手をかけた瞬間頭に浮かぶ。
『先生、大好きデス!』
俺はいつの間に毎日あの言葉を待ってたんだ。
ガンとドアに額を打ち付ける。
「ばかだ。」
何度か額をドアに打ち付ける。
最悪だ。
生徒に惚れるなんて。
「先生、なにしてるんデスカ??」
バタバタと走ってくる音と聞きたかった声。
それに顔を上げた。
「あ、おでこ赤くなってマス!」
そっと伸ばされる手。
ゆっくりと打ち付けた場所を撫でられた。
ひんやりとして柔らかな手は気持ちがいい。
それに目を閉じるとおずおずとした手が俺の髪を撫でた。
「ど、したんデスカ??頭いたいんデスカ??」
「ちょっとな…。」
そう言って野田のもう一方の手を掴んだ。
「ぎゃぼっ。あ、あの部屋で休んだ方がよくないですか!!?ソウデス!!そうしましょう!!」
野田は急に焦りだして俺の手を反対に引っ張ると教官室へと引きずるように入った。
そして2人とも入るとバタンと俺は後ろでにドアを閉めた。
「せんせ?」
野田は俺の様子がおかしいのに困惑した目で見上げてくる。
「…最近、なんで来なかった?」
「ふえ?あ、えっと、試験も終ったし…いつまでも先生に頼っちゃいけないなーと思いまして…。」
小さく目をそらす野田に唇を噛む。
野田は都合が悪くなると目を逸らす癖がある。
本人は気づいていないようだが…。
「黒木に行くなって言われたのか?」
そう言うと野田はキョトンとした顔になって首を傾げた。
「ふえ?なんで黒木君??」
「おまえら付き合ってるんじゃないのか?」
「付き合ってマセンヨっ!!」
俺の問いに野田は大きな声で否定した。
それに小さく安堵の息を吐く。
そうか…、付き合ってないのか…。
そんな事でホッとしてもしょうがないけど。
「そうじゃないなら、これからも来い。また成績下がったらどうするんだ。」
「…大丈夫デス!のだめちゃんとお家で毎日頑張ってマスヨ!!」
その姿にズキンと胸が痛む。
なんだよ、そんなに俺とはいたくないのか??
それでも俺は今気づいたばかりの感情に戸惑う事も無く、ただ目の前にいる野田を手に入れたいと思った。
他のヤツなんかに渡したくない…。
生徒だろうと関係ない。
ただ俺を好きだと言って欲しい。
いつの間にこんなに好きになってたんだ??
前はただうっとおしいだけだった筈なのに…。
俺が顔を顰めた事には気づかず、野田はぎゅっとスカートの裾を握り締めた。
そして顔を上げる。
「のだめ、がんばります!!勉強も他の事もいっぱい!!」
「ああ…。」
「だから…。」
急に言葉を切った野田を見る。
野田は真剣な顔で俺を見上げていた。
その目には涙が浮かんで潤んでいた。
ドキリと胸が鳴る。
普段子供っぽくてかわいらしい姿が大人の雰囲気を纏って十分に女に見えた。
思わず手を伸ばす。
「なに?」
「だから20歳になったらもう一度先生に告白してもいいデスカ??」
え…。
「ダメデスカ?」
ゆっくりと手を伸ばし、今にも零れそうな涙を指で拭う。
ダメなわけねーだろ。
「いいよ。」
「ほ、ホントデスカ!!?」
ぱぁっと一瞬にして明るさを取り戻した顔に少し笑う。
ヤバイ。
嬉しい。
さっきまでのイライラとした気分はなくなってただ嬉しい。
「だけどさ。」
「はい?」
「今言って?」
そう言ってその小さな体を抱きしめた。
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パタパタと放課後の廊下を走る。
これがのだめの日課。
卒業までもう少し。
たぶんそれまできっと毎日続くコト。
大好きな人がいる場所にたどり着くとドアを開けた。
「千秋先生!今日も大好きデス!!」
入った瞬間そう言ったら、大好きな大好きな人は優しく笑ってくれる。
end