振りほどこうとしてもビクともしない強い手。
怖くなって暴れて暴れてようやく手の力が緩んだ隙に振りほどいて走り出した。
走りながら震える手で携帯のナンバーを呼び出した。

怖くて怖くて泣きそうになりながら浮かんだのは毎日優しい笑顔をくれる人。

仲の良い友達でも思い出の男の子でもなく毎日仕方ないなって顔でのだめの世話を焼いてくれて無頓着なのだめを心配してくれている人。

彼の顔しか思い浮かばなくてあの優しい笑顔を見て安心したくて走りながら必死に携帯を鳴らした。

すぐに出てくれた。

それで安心しちゃって力が抜けた瞬間携帯が手からすべり落ちてしまった。
だけど足音は後ろからずっと迫ってきていてそのまま近くの公園の中に走りこんだ。

これでもう彼は来てくれない。
自分の力で逃げ切らなきゃ。

だけど気持ちを奮い立たせて走るけれど、気持ちに体はついていかなくてとうとう足がもつれて転んじゃった。
慌てて体を起こしたけど足が震えて立てない。
振り返ると少し息を乱したストーカーが数メートル離れたところからゆっくりと歩きながら近づいてくる。

ああ、のだめはバカだ。
主任の言うことを聞かなかったから。

怖いよ。

どうしよう。

もう立ち上がれないから手に掴んだままの鞄を振り回して大声で叫んだ。

「ヤデスっ!来ないでっっ!!」

必死になって叫んだけど目の前の男の人は止まってくれない。
もうダメデス。
のだめ、幸せなお嫁さんになれないまま死んじゃうんだ。

ギュッと目を瞑れば浮かぶ優しい笑顔。
ああ、千秋主任に会いたいっ。

そう思った瞬間。

「のだめっ!!」

大好きな声が聞こえた。

目を開けると息を切らしながら走ってくる千秋主任。
夢かな?
うんうん、夢じゃない。

ホッとして力が抜けた。
ああ、もう大丈夫。

彼はきっとのだめを守ってくれるから。

その確信がどうして持てるのか不思議に思うこともなくのだめはすんなりとそう思ってしまう。
彼はずっと初めて出会ったときからのだめに優しかったから。
どんな時でも心配して守ってくれていたから。

それが当たり前のような気がしてた。

ホッとしたのだめとは対照的にすごく険しい顔になった主任はのだめの目の前にいたストーカーを殴り飛ばした。
それにビックリする。
だって人を殴るような人じゃないから。
確かに仕事ではよく怒ってるみたいだけど、普段は照れ屋でとっても優しい人なのにその人が鬼みたいに怒ってる。
その様子が怖くて、きっと主任をこんなふうに怒らせてしまったのは自分のせい。
言いつけを守らなかったから。
だから悲しくなって、また腕を振り上げた千秋主任を止めたくて必死に名前を呼んだ。

腕を止めた主任が振り返る。
のだめを見ると鬼みたいだった顔がすごく心配そうな顔に変わる。

その瞬間、なんだか胸がいっぱいになっていろんな事がぐちゃぐちゃになって目から涙が溢れた。
かすれた声で名前を呼ぶと主任は慌てて走ってきてのだめを抱きしめてくれた。
暖かい腕。
震えていた体がじんわりと温まる。

優しい体温と匂いに安心して身を摺り寄せると更にきつく抱きしめられた。

ここはとっても安心する。

その後千秋主任はストーカーを警察に連れて行き手続きとかもやってくれマシタ。
のだめは来なくていいから鍵をかけた車にいるように言って携帯とココアの缶を渡された。

甘い甘いココア。
一人じゃ不安だったけど、肩にかけられた主任のジャケットと甘いココアに心が解れていく。

すぐに主任は戻ってきてくれて車でお家まで連れて帰ってくれて
車の中でも車を降りてもずっと手を繋いでくれてマシタ。

暖かい大きな手。
その手は魔法のように癒してくれる。

部屋に入ったらもうなんだか我慢できなくて主任の背中に抱きついた。
ギュウッと抱きしめると主任は体を反転してのだめを腕の中に抱きしめてくれマシタ。

「どした?」
「ぎゅってシテクダサイ。」
「ん。」

のだめの希望通り強く抱きしめられる。

「…ゴメンナサイ。」
「なんで謝るんだ??」
「だって言いつけ守らなかったから…」
「俺のほうこそ…、約束の時間に行かなかったから…。ごめん、怖かっただろ。」

大きな優しい手が頭を撫でてくれる。

だからのだめはもうほとんど恐怖はなくてただ幸せな気持ちに浸っていた。
確かにものすごく怖かったけど、この暖かな温もりがあればどんなことでも癒される気がするんデス。

「怖かったデス。」
「うん。」
「でも、主任が着てくれたからもう怖くないデス。」

そう言って顔を上げると漆黒の瞳がのだめを見下ろしていた。
綺麗な黒に写る自分。
それが幸せ。

これって浮気なのかな?
のだめには運命の人がいるのに。

ちょっと不安になる。

胸元で揺れてる指輪を思い出す。

だけどほんとに幸せなんデス。
どうしようもなく。

ぎゅっとしがみつくように力を込めると、抱きしめ返してくれる腕に身を任す。

しばらくすると今日はもう寝るぞと手を引かれて主任の寝室に連れて行かれる。
寝るなら着替えなきゃと自分の部屋に戻ろうとしたら今日はここにいろって主任のTシャツとハーフパンツを渡された。
それに着替えてベッドに入るとまた抱きしめられた。
いつもはなんだかんだと文句を言われるのに今日はまったくそれもなくて大好きな匂いをいっぱい嗅ぐ。
「主任大好き。」
そう言うと主任は少しだけ複雑そうな顔で笑う。
「バカか。おまえには運命の王子様がいるんだろ?」
「いますよー。でも主任も好きデス。」
「あほか。」
「むむ、信じてないデスネ!?」
「はいはい。俺も好きだよ。」
テキトーに言う主任にむぅと頬を膨らませて睨む。
「むきー!バカにシテマスネ!」
「してない、してない。ほら、さっさと寝ろ。」
「むー。もう、いいですよ。おやすみなさい。」
「オヤスミ。」

大好きな声を聞きながら目を閉じる。

ほんとデスヨ。
主任の事も好きデス。

口にして初めて気づいた。

だって好きって言った瞬間とても幸せになれたから。

でも…
のだめはヤな子デス。
2人の人を好きになっちゃった。

どうしたらいいのかわかんないデスヨ。

でも好きなんデス。

思いでの男の子も千秋主任も。

今は何もうかばない。

だけどだけど今は抱きしめてくれるこの人に伝えたい言葉を。

「アリガトデス。」

小さくそう呟いたら、ますます強く抱きしめられた。

ドキドキドキドキ。

心臓の音。

どうか主任に気づかれませんように。

彼の腕の中で必死に祈った。

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