たとえば朝食や夕食にあいつの好きなものばかり並べてしまったり、大好きなアイスクリームを冷凍庫いっぱいにしてしまったり、
スカートの丈が短すぎるんじゃないかと気になったり、あどけない寝顔にキスしたくなったり…。
なかなか今まで経験したことのない己の行動に頭を抱えるしかない。
だけどのだめが俺を好きじゃないことは百も承知。
だから今は無理に俺のことを好きになってもらおうとは思っていない。
長期戦でいくつもりだ。
自分がライバルだなんて滑稽な話。
だから昔の自分に嫉妬はするけれど、まだ他人じゃないだけ救いはある気がする。
これで俺じゃない誰かをのだめが想っていたりしたら俺は本気の嫉妬でどうにかなってしまっていたかもしれない。
そう思うほど、自分の気持ちに気づいた俺はのだめがかわいくて愛しくて仕方がなくなってしまっている。
比べるわけじゃないけれどやはり庶務課と海外事業部じゃあ仕事の量が違う。
のだめはほとんど定時か遅くても7時前には帰るから俺も出来るだけ早く仕事を終わらせて帰宅するようにしていた。
それを清良がニヤニヤとした笑いを浮かべて見ているのが少し居心地悪かったけれどそれでも俺はのだめが待っている家に帰っていた。
たたいまと言えば、おかえりなさいと返してくれる愛しい人がいる。
それは俺にとって幸せで、もう手放せない。
ニコリと笑い今日あったことなんかを楽しそうに一生懸命話す姿に癒されて仕事の疲れなんてなくなる。
仕事は膨大。
優秀な部下に恵まれたおかげで次々に上がってくる仕事をミスのないようにこなしていく。
早く今日も帰って存分にあのかわいい笑みを見たい。
そう思い仕事をこなしていると急に聞きなれた声が響いた。
「失礼しマース!」
底抜けに明るい少し高めの声。
驚いて顔を上げると脚立を抱えてオフィスに入ってきたのだめの姿が見えた。
海外事業部には女性も制服を着ている社員はいないから事務用の制服を着たのだめの姿は目立っていて、
部屋中の人間がのだめを見ていた。
「あれ、のだめちゃん?」
俺が立ち上がるよりも早く、入り口の近くにいた清良が立ち上がった。
「こんにちはデス。」
ニコリと笑うのだめ。
「どうしたの、脚立なんか持って。」
「電球の付け替えデース。」
そう言えばオフィスの電球がひとつ切れたから申請したいと部下が持ってきた書類に判を押したなと思い出す。
今まで電球の付け替えは庶務課の峰という俺の同期の男が来ていた筈なのに今日はなぜかのだめが来たようだった。
大丈夫なのか?
脚立ってけっこう高いし…
のだめはそんなに高いヒールを履いているわけじゃないけれど、なんだか脚立に上る足取りは覚束なくてソワソワする。
見ていられなくて立ち上がると含み笑いをする清良と目が合った。
くそ、おもしろがりやがって。
それでもヨタヨタと脚立を上るのだめに我慢できなくてそばまで近寄った。
そこで気づいた。
おい、スカートやばいだろ。
もともとそんなに長くない制服のタイトスカートから伸びる白い足。
童顔なのだめは意外とスタイルが良くて足が綺麗だ。
その白くて綺麗な足が脚立を上るたびに少し捲れたスカートから際どく覗く。
もう少しで下着まで見えてしまいそうで青くなった。
ハッとして周りを見ると何人かの男がポカンとのだめを見ていた。
おい。
見んなよ。
まさか自分で下着が見えるぞなんて言える訳はなくて清良に視線を送るも含み笑いを返されるだけ。
周りの男は増えていってあからさまにちょっと頬を染めてるヤツまでいる。
ああ。
こうなりゃヤケだ。
「おい。」
「ふえ?」
呼ぶと振り返るのだめ。
そして俺の顔を見つけるといつもの笑みを浮かべた。
それにかわいいななんて思うけれど、そうも言ってられない。
振り返ったことで更にスカートが捲りあがった気がする。
「千秋しゅにーん。」
「…とりあえず降り…」
「のだめちゃんっ!」
脚立で振り返ったのだめが俺の方へ身を乗り出した瞬間グラリと体が傾いた。
バランスを崩したのだめはあわわと緊張感のない声を出しながらひっくり返った。
清良が慌てて叫んだ声に動かされるように落ちてくるのだめに腕を伸ばす。
間に合え!
腕に落ちてくる重み。
しっかり抱きとめてそのまま抱きしめた。
「ふあ。」
「…大丈夫か?」
「ふぁい。」
腕の中の温もりを覗き込むとポカンとした顔で何度も瞬きをする。
自分が落ちたということがあんまり理解出来ないらしい。
とりあえず無事そうなので腕から開放して立たせる。
「どっか痛かったりしないか?」
「ハイ。」
「のだめちゃん大丈夫?」
「馬鹿のだめ!」
怪我をしていないか確認していると清良と真澄が近づいてきてのだめに話かけた。
「大丈夫デス。ちょっとビックリしちゃいマシタケド。」
むんと言い腕を伸ばす。
無事な様子にホッと息を吐く。
そしてのだめの手に握られたままの電球を見る。
「おい。」
「ハイ?」
「それ貸せ。」
「?」
キョトンと首を傾げるのだめからサッと電球を奪うと自分で脚立に上る。
「あわわっ。主任、のだめ出来マスヨ!」
「まぁまぁ、のだめちゃんいいじゃない。千秋君の方が身長だっておっきいんだから。」
慌てるのだめと含み笑いの清良。
清良には俺の意図なんて丸わかりなんだろう。
だけどのだめにもう一度脚立に上らせるくらいなら笑われたって自分でやった方がマシだ。
あの綺麗な足を他のやつらに見せたくない。
下着は言語道断。
それになにより落ちられたりしたら…
さっさと電球を付け替えて脚立から降りるとアリガトウゴザイマスと笑うのだめとニヤニヤ笑いの清良と複雑そうな顔の真澄。
「そういえばいつも電球替えに来るあのバカはどうした?」
脚立をしまうのだめに話し掛けると今日は風邪でお休みナンデス〜と暢気な返事が返ってくる。
あのバカは役にたたねぇなと心の中で毒づく。
「これからはあいつが休みのときは電球は次の日にしろ。」
「何でデスカ?」
「おまえは危なっかしい。」
「むー。そんなことないデスヨー。今日のは主任が急に話し掛けるからー。」
「…とにかくヤメロ。」
「むー。」
「ふふ、千秋君はのだめちゃんのことが心配で心配でしょうがないのよー。聞いてあげて。」
俺とのだめの言い合いに清良が口を挟む。
それにのだめはチラリとだけ俺を見てショウガナイデスネなんて生意気な事を言う。
それでもまぁいい。
自分がいないところで落ちられたら自己嫌悪どころじゃすまないから。
「じゃ、のだめ帰りマース。」
脚立を持ち上げてフラフラと歩き出すのだめ。
その姿にもハラハラする。
俺はこんな心配性だったっけ?
だけどこのまま歩かせたらどこかでこけそうで不安だ。
だけどここはオフィスでさっきからの騒ぎで部屋中の人間が俺たちを見ている。
これ以上のだめに構うのもなんだか詮索されそうで手を出すべきか迷っているとポンと清良に背を押された。
「そう言えば千秋君、総務に書類出しに行くって言ってなかった。」
急に言い出した清良を見る。
確かに朝そんな話をしたが急ぎでもないし、昼にでも持って行こうと思っていたヤツだ。
「ちょっと急ぎなんだ。今持って行って。」
デスクにあった書類を無理矢理渡される。
そしてウィンク。
「サンキュー。」
それを掴むとのだめを追いかけた。
オフィスを出たところでのだめのヨタヨタと歩く背中を捕まえた。
「おい。」
「ふえ?」
「それ貸せ。」
無理矢理のだめの手から脚立を奪う。
「あー。」
「総務に行くついでだから。」
「えへへ、アリガトデス。」
はにかむように笑う。
その笑顔で何だってしてやりたくなる。
こんなことぐらいだったらいつだってしてやるよ。
片手で脚立を持ち、のだめの色素の薄い髪を撫でる。
「今日もお昼ご飯一緒に食べれマスカ?」
「ああ、行きたいとこ考えとけよ。」
「ヤタ。今日は何がいいかなー?」
ウキウキと弾むように歩きあれこれと考えながら俺に話す。
和食もいいなー。
でもハンバーグもいいなー。
あ、駅前のビルに新しいカフェが出来たんデスヨ?
そこの手作りクッキーが絶品らしくてすぐ売り切れなんデス。
食べたいなー。
思いつくままに紡がれる他愛のない話に相槌を打ち笑う。
普通に見れば恋人同士。
だけど自分達はそうじゃなくて、それに少し切なくなるけれどしょうがない。
ゆっくり進むって決めたから。
のだめの中で昔の自分を超える為に。
あの頃の自分より好きになって欲しいから、想いが通じるまでおまえの思い出の男の子は自分だと伝える気はない。
楽しそうに笑ってくれるだけで今はいい。
欲張らないって決めたんだ。
「主任、聞いてマシタ?」
「聞いてたよ。おまえがいかに食い意地が張ってるかがよくわかった。」
「ムキー!ヒドイ!!」
「ぷっ。」
「笑いマシタねー!!」
プクと頬を膨らますのに笑う。
そうやって怒る顔もかわいいなんて言ったらどんな顔をするのか試してみたい。
いつか。
そう言って抱きしめられたらいい。
今はまだ。
「悪かったって。特別に今日の晩飯のメニューも決めさせてやるから機嫌直せよ。」
「ホントデスカ!??」
「ああ、何がいい?」
怒った顔がすぐに笑顔に。
それだけでいいよ。
またあれこれと悩み出すのだめを見つめてた。
「めぐみちゃん!」
それは不意に。
突然に聞こえた。
のだめが振り返る。
そういえばコイツは恵だったよな。
のだめが振り返った方を俺も振り返る。
そこにいたのは一人の男。
見たことのない顔だった。
「恵ちゃんだよね?野田恵ちゃん。」
「ハイ。…そーデスケド??」
のだめにも見覚えがないのかしきりと首を傾げた後俺を不安そうに見上げた。
「えっと、誰?」
のだめの気持ちを代弁するように俺が問いかけると男は初めて俺のほうへと視線を向けた。
グレーのスーツに落ち着いたネクタイ、真面目そうで特に変なヤツそうでもない。
俺の存在に初めて気づいたのか男は少し頬を染めて頭に手をあてた。
「あ、すみません。僕、黒木って言います。今まで支店勤務だったんですが今日から本社に。よろしくお願いします。」
折り目正しく頭を下げる姿はかなりの好印象。
そういえば支店のやり手が本社勤務になるとこの間清良が話していたのを思い出した。
「海外事業部主任の千秋です。よろしく。」
手を差し出すと彼ははにかんだ笑みを浮かべ手を握り返してきた。
「あの〜。」
置き去りにされたかたちだったのだめの躊躇いがちの声に手を離す。
「おまえの知り合いなんだろ?」
多少おもしろくないものの知り合いぐらいはいるだろと無理矢理自分を納得させる。
けれどのだめは困った顔を俺に向ける。
「…えっと、ゴメンナサイ…。誰デス??」
そして思い切って黒木君を見ると申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
それに黒木は酷く残念そうな顔をした。
「いや、ごめん。子供の頃よく一緒に遊んでたんだ。
めぐみちゃんが引っ越しちゃってからは全然会ってないから覚えてなくても仕方ないよね。」
その言葉に俺ものだめも固まった。
恐る恐るのだめを見るとのだめも俺を見上げていた。
あの頃のだめは誰とでも仲良くなれる子供だった。
俺以外にも仲の良かった子供は大勢いた筈だ。
きっと彼もその中の一人なのだろう。
「ちっとも変わってないからすぐにわかったよ。あと、その指輪で。」
ニコリと笑う黒木。
のだめは一度自分の胸元で揺れる指輪触るともう一度黒木を見た。
どういうことだ??
俺の頭の中は疑問符がいっぱい。
アレは俺がのだめに贈ったもの。
だから俺以外の誰もアレをのだめに贈っている筈はないのに。
「この指輪のこと知ってるんデスカ?」
「うん。まだ持ってるんだね。」
嘘をついているとは思えない黒木の顔。
どういうことだよ??
でものだめにはそれだけで十分だったらしく、黒木をじっと見つめていた。
ライバルは自分だった筈だった。
だけどもしかしたらそうじゃないのかもしれない。
ゆっくり進むと決めたばかりなのに俺の心は揺れてなんでだという言葉ばかりが頭の中をグルグルと回り続けた。