「シンイチくんとさよならしたくないよ。」
泣きべそをかきながら白い頬を真っ赤に染めて言う女の子を安心させてあげたかった。
だけど、まだ子供の俺は何を言えば女の子がいつものように笑ってくれるのかわからなくて
必死に考えて考えて考えて…
慌てて近所の駄菓子屋で買った赤い石の入ったおもちゃの指輪とともにひとつ約束をした。

「大きくなったら会いに行くから、そしたら僕のお嫁さんになって?」

そう言ったら女の子はきょとんとした後で、今まで見たこともないくらいかわいく笑ってくれた。

 

 

「千秋君?」

誰かの呼ぶ声がする。

「ちょっと、千秋君??」

誰だ?
目の前の鮮明な少女の笑顔がぶれて消えそうになる。

もう少し見てたい。
無邪気で綺麗な笑顔。

消えないで。

想いとは裏腹に笑顔はどんどん薄れてぼんやりとした光だけになる。

「千秋君?こんなとこで寝たら風邪ひくわよ?」
軽く肩を揺すられる感覚に目を開ける。
さっきまで見えていた柔らかな少女の笑顔は消え、薄暗い室内で自分を見下ろしている同僚の顔が目に入った。
「…清良?」
「…働きすぎじゃない?いくら大事なプロジェクトの前だからって家にも帰らず…。
せめて仮眠室で寝たら?」
寝起きの掠れた声で呼ぶと呆れた顔をして清良は髪をかき上げる。
俺はゆっくりと突っ伏していたデスクから体を起こし、痛む節々を伸ばすように伸びをした。

昨日報告書や案件のチェックなどをしているうちに眠ってしまったらしい。
これで会社に泊り込み3日目だ。

「今何時?」
「もう9時よ。みんな出社してきてる。」
「あー悪い。」
髪を掻き毟ると清良はため息をつき、オフィスのブラインドを上げた。
大して広くない個人オフィスの部屋が急に明るさを取り戻す。
暗闇に慣れていた起き抜けには辛いぐらいの光に、うっと目を閉じた。

「通常業務は進めておくから、せめてシャワー浴びて髭そってきなさいよ。
そんなだらしない姿見せたら会社中の女子社員が悲鳴上げるわよ。」
「…なんだよそれ?」
訳のわからないことを言う清良を片目で見ると楽しそうに笑いながらオフィスのドアを開けて出て行く。

「なんだ、あいつ??」
まったく女はよくわからない。
今までそう多くはないが少なくもない女との付き合いの中で学んだコト。

三木清良は同期入社で、美人だが気の強い性格と男勝りの仕事能力で男が断然多い海外事業部で副主任をしている。
女っていうものを前面に出さない、
ある意味男より男らしい面を持つ彼女でさえもたまにやっぱり理解できない所がある。

当たり前の事だけれど。

ああ、あの子は違ったな。
自分の感情に素直で、明るかった。
彼女が何を言いたいか、どう思ってるのか俺にわからないことはなかった。
どうすればいいのか迷ったことはあったけど。

夢の中で久しぶりに会った少女。

今どうしてんのかな?

投げ出してあったタバコのパッケージを掴み、タバコを口に咥える。

まさかいまだに俺を待ってるなんてことはないだろうけど、
たまに会いたいと思うことはある。

だいたい煮詰まってる時や躓いた時。
思い出したかのように夢に現れては俺に笑顔をくれる。

今まで付き合った女の笑顔なんて覚えてないのに…

あーヤバイ。
最近荒んだ生活しているからなんか癒しが欲しくなってきてんのかな…

吸い終わったタバコを灰皿に押し付けて立ち上がると、
かけてあったジャケットを持ちオフィスを出た。

とりあえず清良が言ったようにシャワーでも浴びるか…
さっぱりして思考をもどさねーと。

ひと気のないフロアの廊下を少し急ぎ目で歩き、
角を曲がろうとした瞬間ドンという衝撃とともに軽く体が弾かれた。

「ムキャー!!痛いっ。」
軽い衝撃の後聞こえてきたのは高い声の奇声。

どうも人にぶつかったらしい。
前を見ると事務の女子社員用の制服を着た女が廊下に座り込んでいた。
ぶつかった時に落としたのか、周りには白い紙が散らばっている。

「悪い。大丈夫か?」
そう言うと俯いていた女が顔を上げた。

え?

その瞬間俺は息を飲んだ。

柔らかそうなボブの髪。
白くて柔らかそうな頬は少しだけ赤みが指してピンクになっている。
大きな丸い目と少し尖ったピンクの唇。

そのどれもが自分の知っている姿だった。

さっきまで思い出していた少女が大きくなればこんな感じだろう。
その姿。

急に動きが止まった俺の姿にきょとんとしたように目の前の女は座ったまま首を傾げた。
その瞬間彼女の首元にあったペンダントが揺れた。

赤い石の入ったおもちゃの指輪がペンダントトップとして付いている。

俺は信じられない気持ちで彼女を凝視していた。

何度か彼女は瞬きしてそして散ってしまった紙に気づき慌ててかき集め始めた。
俺はもう頭が真っ白なまま、義務的にそれを手伝う。
全部集まったところで彼女は俺に夢のままの満面の笑みを向けた。
「ありがとーございマス!ごめんなさいデシタ!!」
まだ動きの鈍い俺にそれだけ言うとパタパタと走り去っていく。
その後姿をぼんやりと見つめた。

なんだよ。
気づいたのは俺だけ?
マジむかつく。

…でも会えた。

その瞬間俺の胸にぽっかりと明かりが灯った。

ハッと我に返り慌てて彼女が走っていった方へと足を向ける。

なんだよ。
スゲー、心臓がドキドキいってる。

夢か??
まだ俺の体はオフィスで眠ってて夢の中を走ってるんだろうか?

半信半疑のままでも、俺は足を止めなかった。
一応主任クラス以上の人間のオフィスが並ぶフロアだから人気はあまりない。
なのに彼女の背中はもうどこにも見えなかった。

なんでここまで必死になるのかわからないままとりあえず走る。

どこいった??
もしかして人違い??

でもアレは…
あの笑顔は間違いない。

 

必死に探したにもかかわらず結局彼女をもう一度見つける事は出来なかった。

夢じゃない体の疲労と幾分かの落胆を背負って海外事業部のオフィスに顔を出すと呆れた顔の清良と目が合った。
時計の針は10時半。
シャワーに行くだけにしては随分と遅刻だ。
結局ついさっきまで諦め切れずあのあたりをぶらついて、シャワーにも行かなかった。

「何してたのよ?千秋君らしくないんじゃない??」
少し怒ったように言う清良に素直に謝りながら、デスクに座る。
昨日綺麗に片付けていったはずなのにもう山のように書類が積まれている。

「悪かった。ちょっとぼんやりして…。」
山の一番上に手を伸ばす。

目の前にはやる事が山積みだ。

なのに俺、なにやってんだ??

この海外事業部にいるのは会社内でもエリートと呼ばれるクラスの人間ばかりでみんな仕事が出来すぎるほど出来る。
まだ始業から2時間も経っていないのにこれだけの仕事が片付けられて俺の元へ決定をもらうべく山のように
積み上げられるのだ。

昼までに簡単なものをすべて吟味し振り分けていかなければならない。

女捜してる場合じゃないだろ??

そうは冷静な頭で思うのに、理性はそうは簡単に納得できていない。

…どこにいんだよ??
現れたかと思ったら消えて。

この社内にはいるんだろう。
だけど日本でも有数のこの会社じゃあ、事務の女性社員なんて数え切れないぐらいいる。
その中から見つけ出すなんて不可能だ。

その事実に軽く凹む。

「ちょっと、ほんと大丈夫なの??」
俺が黙ったからか清良は表情を少し曇らせた。
「…大丈夫だよ。ただ昨日から飯食いそびれてるから体が動かないだけ。」
適当なコトを答えると清良は益々眉を寄せた。
「…って、昨日から食べてないって大丈夫なの??」
「もう、麻痺してる…。」

そう言って仕事にかかろうとすると清良は俺の取ろうとした書類に先に手を伸ばし高く持ち上げた。
自然と顔を書類へと向けると怒ったような複雑そうな清良の顔が目に入る。

「ご飯くらいしっかり食べなさい。千秋君が倒れたらこの課の実質的な動きは止まっちゃうんだからね!!」
「わかってるよ。」
「わかってません!!」
俺が面倒だと思ってるのに気づいたのか清良は切れ長の目をますます吊り上げる。

「この際に言っておくけど、千秋君はしっかりしてるし、
仕事も他の誰よりも出来るけどね、自分を大事にしなさすぎ!!
今プロジェクトの大詰めでこの課のみんな手一杯だけどね、リーダーの千秋君が煮詰まってたらダメなのよ!!
休む時はちゃんと休んで、しっかりご飯食べて息抜きしなさい!!」

ゼーハーと肩で息しながら清良は一気に言い切った。

俺はそれを唖然と見上げる。
オフィスの中にいた他のみんなも何事かとこちらをチラチラと伺っているのが清良の肩越しに見えるのも気にならない。

ただ唖然と普段のクールな清良の爆発具合を見上げている。
とりあえずものすごく間抜けな顔をしているのだけは確かだ。

「決めた!」
そして唖然としたままの俺に清良は言い放つ。
「な、何を??」
「今日、真澄ちゃんと他の課の子とランチ食べる約束してるから、それに千秋君も参加する事!!
そんでおいしいもの食べて楽しい時間を過ごして気分転換するの!!決まり!!」

「…はぁ??」

何言ってんだ??

「今から私も真澄ちゃんもオフィスはなれるから、待ち合わせは1時半に会社の前の石段のとこね。」

俺の思考が正常に動き始める前に清良はそれだけ言うとさっさと書類を机の上に戻し離れていってしまった。
数分後ようやく正常に頭が働き出した時にはすでに遅し。

ぽつんと取り残された俺がいた。

 

next