ここ数日俺の状態はすこぶる良好。
煮詰まってた仕事も何故か順調に動き出し、いい具合にすべてがいっている。

それはたぶん、あの笑顔のおかげ。

あの日昼休みに再会したのだめ。
まさか清良や真澄と知り合いだったとは驚きだったが、あれから3人のランチにたまに一緒に行かせてもらう。
まぁ奢らされるけど…
それでものだめのあの蕩けるような笑顔を見れるなら安いものだと思う。
あの笑顔を見るだけで自然と元気になれるし、疲れが飛ぶ。
それが自分に向けられているものなら、頬が緩むほどに嬉しい。

なんなんだ、これ?
俺ってこんなキャラじゃないだろ??
そう戸惑いもするけど、やっぱりのだめのあの笑顔を見れば
すべてどうでもよくなってただあの笑顔を見ていたいと思ってしまう。

子供の頃、のだめがトマトを嫌いだった事を思い出すと
無理に食べさせるのがかわいそうで訳のわからない理由をつけて食べて食べてやったり、
甘いものが大好きだというからデザートをあげたり。

ああ、俺は相当あの笑顔にやられてる。

そして気分が良くなれば、仕事も上手くいきだして溜まっていたいろんな仕事はあっという間に消えた。
毎日会えるわけではないがそれでも2、3日に1度は見れる笑顔に俺は随分と救われていた。

だけど人間は満足するという事を知らない生き物だ。

今まで忘れてたような小さな子供の時の約束相手。
だけどその無邪気でかわいい笑顔に相当やられてしまった俺はここ数日、順調さを実感しながらも
のだめに毎日会いたいとか思ってしまう。

何度もその首元で揺れている指輪の相手は俺だと言おうとした。
だけど全然気づかないのだめになんとなくムキになってみたりして、結局は言えずじまい。

ああ、今日も会えなかったな…

そう思い、軽く気分を沈ませながら車を発進させた。
ここ数日の順調な仕事具合にまともに家に帰れる事に安心しながらもどこか落ち着かない。

明日は会えるだろうかと思いながらタバコに火をつけ煙を吐き出す。
暗い車内に白い煙がゆらりと浮かぶ。
信号が赤になったところで煙を目で追っていると窓の外に見慣れた薄茶色の髪が見えた。

慌ててタバコを消す。
見えたのは間違いなくのだめ。

ふわふわと飛ぶような足取りで歩道を歩いているその姿に俺は少しだけ胸が騒いだ。

馬鹿みたいだ。

ただ姿が見えただけでこんな気分になるなんて。

まるで恋してるみたい。

そんな考えが頭をよぎって慌てて首を振る。
誰に聞かれてるわけでもないだだ一人っきりの車内の心の声なのに妙に慌ててしまった。
それは真実だからなのか冗談じゃないという気持ちからだったのかわからないがとりあえず
跳ねた心臓と熱くなった顔を元に戻そうと大きく深呼吸した。

あいつなにしてんだ?

俺の慌てたことになんて俺がここにいる事すら気づいていないのだめには知りようもないが、
のだめはさっきから俺の車が止まっているすぐ横の歩道を行ったり来たり。
少し進んだかと思えばまた戻ってきて、しまいには歩道に座り込んだ。

信号が青に変わる。
俺は発信させず、車を脇に寄せ外へと出た。
まだのだめは気づかない。
座り込んで歩道脇の茂みに顔を突っ込んでいる。

「なにやってんだ?」
「ぎゃぼっ!!?」
突然かけられた声にのだめは座り込んだまま飛び上がって急いで振り向いた。

そして俺の顔を見ると小さくホッと息を吐き出した。
「びっくりしマシタ〜。急に声かけないでクダサイ。ドキドキです。」
「お前が気づかなかったんだろーが。何やってんだよ、そんなとこ座り込んで。」

のだめは立ち上がりピンクのワンピースに付いた埃を払う。
頭についていた葉っぱを払ってやると「ありがとデス。」とニコリと笑う。
俺がその笑顔に釘付けになっているなんて気づかないのだめは少ししょんぼりとした顔になって詳細を語りだした。

「お財布無くしちゃったんデス。」
「はぁ?」
「あのお財布には定期だけじゃなく、のだめの全財産が入ってたんデスヨ!!」
理解できずに抜けた声を出した俺にのだめはこぶしを作って力説している。

「ど、どこで無くしたんだ?心当たりとかあるだろ??」
「うーんとそれが会社からここに来るまでのどっかなんデスヨね〜。」
「会社ではあったのか?」
「はい。出る前に自販でヨグルト買いましたから。
もしかしてブンブン、グルグルって鞄回してたのがいけなかったんデスカネー?」
「はぁ。」
そののんきな言葉に脱力。
鞄振り回してどっかに飛ばしたのか??
「さっきから探してるんですけど全然見つからないんデス。そろそろ諦めて帰ろうかと。」
「いつから探してんだ??」
「3時間くらい前デスカネ?」
まだ秋とはいえ肌寒くなってきたこの季節に3時間も外にいたバカに呆れてまたため息をつく。
伸ばした手で触れるとのだめの白い手首は少しだけ冷たく冷えていた。
「あほか。冷えてるじゃねーか。」
「あー、そう言えばちょっと肌寒いデスネー。」
またもやのんきな声に脱力しそうになる。

「で、帰るって定期も金も無くてどーやって帰るんだ??こっから近いのか??」
一駅、二駅なら歩いて帰れるだろう。
「えーとこっからだと電車で1時間くらいデス。歩いてどれくらいかかると思いマス??」
「あほか…。」
なんでもないという調子で喋るのだめに今度こそ俺は深い脱力感を覚える。

電車で1時間の距離を歩いて帰れるか…
キョトンとした顔ののだめに深くため息をつく。

「あーほら、行くぞ。」
触れていたのだめの手首を掴んで引く。
「ほえ?」
「あー、だから俺車だから送ってやるよ。」
のだめの目がまん丸になる。
でも次の瞬間、蕩けるみたいに笑う。
それにこんな笑顔が見れるなら毎日だって送り迎えしてやってもいいななんて今までの俺じゃ考え付かない
ことまで浮かんでくる。

「うきゃー!!ホントデスカ??」
異様なほどハイテンションで騒ぐのだめは軽く握っていた俺の手を嬉しそうに揺らす。
「お前さ、その奇声なんとかなんないのか??」
笑顔に口元が緩みそうになりながらも呆れたように言う。
「むきゃ!!奇声じゃないですよー!!喜びを表現してるんデス。」
「あ、そ。ほら行くぞ。」
手を引き歩き出す。
さっきまで少し下がってたテンションが上がって胸がほっこりと暖かく感じる。

あーヤバイ。
口が緩む。

好きだとかそういう感情はないはずなのにやっぱり彼女の笑顔の威力は強烈だ。
普段会社では鬼だとか言われている俺の顔をこんなにも簡単に緩ませるなんて。

助手席にのだめを押し込むと車を発進させる。
のだめは車の中ではしゃいで楽しそうに色々な事を話す。
会社の事や大学時代の事。
嬉しそうに楽しそうに話す姿に俺は適当に相槌を打って聞いていた。
俺の知らないのだめの事。
けっこう嬉しいな。

話すのだめ、つっこむ俺。
テンポ良く会話が進んでいく。

「あ、そういえば最近のだめにストーカーさんがいるんデスヨ?」

一瞬会話が途切れた後、のだめが思い出したように言い出した。

思わずブレーキとアクセルを踏み間違いかける。
何とか事故を起こさずにすみ、平静になろうと深呼吸をする。
おい…、今なんて言った??

「す、ストーカー??」

みっともなく震えた声にのだめは無邪気に笑う。
「そーなんデスヨ!!毎日最寄駅からうちのマンションまでずーっと一緒に歩くんデス。」
「一緒にって喋りながら並んで帰るのか、知らないヤツと??」
それはストーカーなのか??
ただの知り合いじゃねーのか??
俺の疑問にのだめは笑いながら首を振る。
「いいえ〜。のだめの斜め後ろくらいをずーっと付いてくるんです。喋った事もないですね。」
「それは同じ方向に帰る人じゃないのか??」
「のだめも初めはそう思ってたんですけど、どの時間に帰ってもいつも一緒なんデス。
試しにちょっと走ってみたら向こうも走り出したしー。」
なんて事の無いように口にする。

バカか?
こいつはバカなのか??
いや、バカなのは知ってるけど…

なんせあの庶務4課にいるくらいだし…

「お前、それヤバイだろっ!!」
赤信号で止まった隙にそう怒鳴るとのだめはキョトンとした顔をする。
「何がデスカ??」
「何がって、気味悪くないのか!?」
「んー。別にー。特に何されたわけでもないですしー。」

本気でバカだ。

俺は呆れて口がきけない。
マジマジとのだめを見てからハンドルに額を押し付けて大きく息を吐き出した。

「あ、青ですよー。」
俺の内心の葛藤なんて気にも留めていないのだめののんきな声。

俺はもう一度だけ息を吐き出し顔を上げて、車を発進させる。

ダメだ。
こいつに何を言っても。

かといって放っておけることでもない。
チラリと横を見ると無邪気に鼻歌を歌う暢気な女が一人。

危機感がまったく無い!!

ヤバイな。
こいつは奇声を発する頭の弱い女だが、笑顔はかわいい。
それは文句なしに!!
顔だってスタイルだって飛びぬけていいわけじゃないが、イイセンはいってるし。

そのうち本気で襲われたりするんじゃないか??

急に呆れが心配に変わってきた。

もう一度横を見る。
するとのだめもこっちに気づいてニコリと笑った。

ああ、この笑顔が曇る事があったら俺はどうなるんだろう??

たぶん。
きっとそのストーカーとやらをぶっ殺してしまいそうだ。

「あ、ソコデス。そのマンション!!」
ぐるぐると考え込んでいるとのだめが急に大声を出す。
のだめが指差す先を見るとこじんまりとしたマンションが見えてきた。
「あそこ?」
「ハイ!!あ。」
「なんだ??」
座ったままのだめは体を乗り出す。
つられて俺も視線を動かした。
のだめのマンションの前にある電信柱の横にまだ若い男がぼんやりと立っていた。

「ストーカーさんデス。」
「はぁ!!??」

のだめは何でもないことのようにそう言って男を指差す。
若いという事はわかるが他に特徴があるかと言われれば特に無いといわざる得ないくらい地味な男。
メガネに少しボサついた微妙な長さの髪。
よれたチェックのシャツにジーンズ。
車を運転しながらマジマジと男を見てしまう。

「お前って変なヤツだな。普通ストーカーが家の前にいたらビビるだろ??
気持ち悪がったり怖がったりするだろ??」

「えー。けっこう良い人デスヨ。」
「何でわかるんだ??あからさまにヤバイだろアレは!!?」
「前に自販機でジュース買おうと思ったら財布に100円しかなくて困ってたら何も言わずに100円くれましたよ。」

「…ストーカーに奢らしてんじゃねーよっ!!」
「ぎゃぼー!!」
目の前の頭をはたく。
ありえない。
ありえなさ過ぎる!!

こいつは何でこんなに警戒心ないんだ??
っていうかアホ過ぎるだろ?

呆れてモノも言えないがストーカーがいるとわかっている場所でまさか下ろすことも出来ず、
マンションの敷地まで車を入れた。
車を止めるとアリガトデスと言ってのだめは車から降りる。
それに続き、エンジンを止めて鍵をかけると俺も車から降りた。

「どしたんですか??」
車を降りた俺にのだめは不思議そうな顔を向ける。
「ストーカーがいるってわかってんのにいくらマンションの敷地内だからって一人で帰らせるわけには
いかねーだろ。部屋まで送ってやるからさっさと歩け。」
俺が女を送るなんてホントに無い事なんだからありがたく思え。
「心配してくれてるんデスカ??」
「まぁな、ほらさっさと行くぞ。」
直球で聞かれた言葉に少し照れながら答える。
またのだめの手首を掴み引っ張るように歩き出した。
「お前の部屋何階??」
「一階デース。」
一階??
危なすぎるだろ??
窓割られたら一発じゃねーか。

ああ、だんだん不安になってきた。

もんもんとしているうちに一階にあるのだめの部屋まではすぐに着いた。
さすがに一人暮らしの女の家に上がりこむつもりはまったく無いが、ここに置いていくことには不安がある。
一瞬躊躇する俺にのだめはニコニコしながら鍵を開け始めた。

「今のだめの部屋住みにくいんですよねー。」
「はぁ?」
ドアを開けながら意味のわからない事を言うのだめに俺は眉を寄せた。

しかしのだめが部屋の扉を開いた瞬間その真実を知る。

 

「お、お前!!なんだこの部屋はぁー!!?」

 

まさにそこはゴミ屋敷。
玄関がすでに黒いゴミ袋の山で埋まっている。
怒鳴った後固まって動けなくなった俺にのだめはえへへと笑う。

「掃除苦手なんデスヨ〜。」
「苦手の域を超えすぎだろ…。」

そう言えばこいつ、片づけが出来なくていつも手伝わされていた気がする…

俺はがっくりと野田と書かれたドアに凭れる。
今日は色々な意味でショッキングな日だ。

「体に悪いと思うので千秋主任は入らない方がイイデスヨ。なのでココで。
今日は送ってくれてアリガトデス。」
ゴミ屋敷のまん前でペコリと頭を下げるのだめ。

くそっ。

「どけっ!!」
「ふへ??」

のだめを押しのけて俺は部屋へと押し入った。
そこは想像を絶する異空間。

今だかつて経験した事の無い状況に眩暈がする。
だけど。

「おい!!掃除機はどこだ!!?」

「ほえ??」

のだめに掃除機を探させて俺は異空間を必死で磨き上げた。
なんで俺はこんな事してるんだ??
こんなゴミ女ヤバすぎるだろ??
放っておいて二度と関わらなければいいのに。

でもやっぱり。

…ほっとけねーんだよ。

時計はどんどん進み、ゴミ屋敷が磨き上げられたのは深夜と呼べる時間。
すでにここにきた時が昨日になってしまっている。

「千秋主任、すごーいデス!!ピカピカ、キラキラ〜!!」
のだめはきゃあきゃあはしゃいでベッドの上で跳ねている。
「近所迷惑だからヤメロ。」
俺はクタクタになって磨いたばかりのフローリングに座り込んでいた。

ニコニコとしているのだめを見るとこんな事までしたのにまぁいいかなんて思っている自分がいたり。

タチ悪いな。
ホントに。

そう思うのになんでだか結構穏やかな気持ちではしゃぐのだめを見ていた。

しばらく穏やかな気分でのだめを見ていると不意に変な気持ち悪さを感じた。

なんだ??
なんか変な視線。
誰かに見られているような…

思わずぐるりと部屋を見回すとある一点で目線を止めた。

窓。
さっきまで掃除していたからほんの少し開いているその隙間にこちらを覗いている視線とかち合った。

「おまえっ!」
俺はすぐに起き上がって窓へと動く、窓の外にいたヤツは慌ててそこから離れた。
そして窓に手をかけ、勢い良く開くと転がるようにかけていく後姿が見えた。
あの姿には見覚えがある。

帰ってきた時に見たストーカー男。

「どーしたんデスカ、主任??」
もう消えてしまった男のいた場所をジッと見つめる俺の横からのだめがぴょこんと顔を出す。
俺が視線をのだめに向けるとにこっと笑ってちょっと寒いですねーなんて暢気な事を喋る。

ダメだ。
ここに置いてはおけない。

「おい、支度しろ!」
「ほえ??」

何の事かわからないのだめの手を引き、部屋に連れ戻す。
キョトンとするのだめになんでだか怒りが沸いてきて取り合えず怒鳴る。
「さっきこの部屋の中あのストーカーとかいう男が覗いてたぞ!!?」
「ソーナンデスカ?」
「危機感を持て!俺がいなかったらお前今頃襲われてるぞ!!?」
「ほわぁ。ソーデスカネ??じゃあ、今日は主任がいてのだめラッキーでした。」
にぱっと笑う顔に本気で頭を抱える。
どうしよう、バカと対等に話す術がわからん!!

「っ、取り合えず服とか化粧とか生活に必要なもん鞄に詰めろ。」
「えー、なんでデスカ??のだめお金ないし、旅行の予定はありませんヨ??」
「いいからさっさと用意しろ。安全になるまで他に移った方がいい。」
促すがのだめはあまり乗り気ではないようでちょっと膨れっ面になっている。
「大丈夫デスヨ。のだめ以外と強いんデスヨ!それに逃げ足も速いしー。」
「部屋まで知られてるんだぞ!!俺が帰った後また来たらどーすんだ!!?男なめんな!!」

イライラする。
俺は守ってやりたいのに。
こいつは…

聞き分けなく怒るのだめに俺の苛立ちも最高潮でのだめが叫んだ瞬間俺の口も自然に動いてしまっていた。

「のだめ行くとこないんデス!!」
「じゃあ、俺んち来ればいーだろ!!?」

「あ。」
「ほえ?」

思わず口走ってしまった…
のだめは首をかしげながら俺を見上げている。
「千秋主任のお家デスカ??」
「あーうん。」
今更取り消す事も出来ないので曖昧に頷く。

一人暮らしの男の部屋に連れ込むのはやっぱりマズイよな…
でもココには絶対に置いては帰れないし。

「…うちで良ければ置いてやるから取り合えずここから出るぞ。嫌なら清良にでも頼んでやるから。」
のだめは何度か瞬きして視線を外した俺の手を掴む。
「…千秋主任のお家がいーデス。」

チラリと見ると満面の笑顔。
ヤベ。
可愛すぎ。

「お泊りー。」
なんてはしゃぎながら用意しだしたのだめに
真っ赤になった顔を見られないように背を向けて顔を覆った。

今のは反則。

鼻血噴くかと思った…。

って言うかなんで俺んちがいいんだ??
それって……。

さらに顔に熱が集まってきそうだ。

 

その後さっさと用意を済ませたのだめの荷物を抱え、もう一度車に乗り込んだ。

向かうは俺の家。

これからどうなるんだ??
いろんなことをグルグルと考えながら俺は車を発進させた。

 

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