煙草は体に悪いんデスヨ。

そう言うのだめの声が聞こえた気がした。
だけどそれでも煙草を今止める事は出来ない。
むしゃくしゃとした気持ちを何とか落ち着かせようと吸っては灰皿に押し付け、いつも綺麗に洗ってあるそれには山のように吸殻が溢れかえっていた。

また新しい吸殻を押し付けて大して大きくもない灰皿から煙草が零れ落ちる。
それを睨みつけて、だけど次の瞬間には大きくため息を吐き出す。

今日の朝、出会った黒木という男。
のだめの昔を知っていて…。

そして指輪の事も知っていた。

あの指輪をのだめに渡したのは間違いなく俺だ。
だけどあの口ぶりでのだめは黒木が指輪の贈り主だと思っただろう。

運命の人ナンデス。

そう言って笑うのだめの顔が浮かぶ。
のだめにとって黒木が運命の相手になってしまうんだろうか?
あんなに指輪の贈り主を好きだと断言しているのだめならそのまま黒木を好きになってしまうかもしれない。

思い出の男にはきっと誰もかなわない。

それはのだめと一緒に居てよくわかっていた事だ。
だから子供の頃の自分より好きになってもらおうと、長期戦を覚悟していたのに…。
すぐに好きになってもらえる自信がなかったから。

「最悪だな…。」
短くなった煙草を吸い、ソファーにごろんと寝そべった。
手を伸ばし、テーブルの上の灰皿にまた吸殻を押し付けた。

もうここに戻って来なかったら俺はどうする?
二度と俺の腕の中で眠ってくれなかったら??

きっと耐えられない。
あの笑顔にもう手が届かないなんて息が出来ないのと同じくらい辛い。

壁にかけられた時計は21時を過ぎたところ。
もし、今日のだめが帰ってこなかったら…、俺は覚悟をしなければいけないのだろうか?
あの笑顔を壊さない為に何も言わず身を引く?

そんな事もう出来るはずはないのに…。

手を伸ばして床に落ちていた煙草のパッケージを握るとそれは軽く、中身がもうない事を伝えてくる。
逆さに振ってみるが中身が出てくるはずもなく、そのまま床に叩きつけた。
「くそっ。」
小さく悪態をつき、煙草が無い状態になんか堪えられそうも無くて近くの自販機にでも行こうと立ち上がる。
そして帰ってそのまま脱ぎ捨てたジャケットを羽織り、財布を持つと玄関へと向かった。
玄関のドアを出るとそのままエレベーターの方へと足を向けた。

少しの間も待つ時間は苦しい。
歩いていてもただエレベーターを待っているだけでものだめの事が頭を占めて不安で仕方なくなる。

今日の朝まで頑張れば手が届くんじゃないかと思っていたのに。
もうそんな事は夢のようだ。

のだめが黒木を選ぶと決まったわけではないけれど、俺は死刑判決を待つ囚人の様な気分だった。

ポンと軽い音がしてエレベーターが止まる。
ゆっくりと開くドアに乗り込もうとした瞬間思わず足を止めた。

そして何度も瞬きをする。

それが幻じゃないと確かめるように。

エレベーターの中にはのだめがいた。
のだめも俺を見ると一瞬少し驚いた顔をして、でもすぐにふわりと笑った。

「あ、主任!タダイマデス!!」
そう言ってのだめが胸に飛び込んできた。
柔らかな体を受け止めて信じられなくて薄茶色の髪を見下ろした。

「え?なんで?」
「ふえ??なんで??」
呆然と言葉を吐き出した俺をのだめは不思議そうに見上げる。
「いや、飯食って来るんじゃなかったのか?」
「えー。もう9時デスヨー。」
のだめは不満そうに唇を尖らせて首を傾げる。
その姿にホッとするやら気持ちがついていかないやらで俺は一気に体から力がぬけてしまう。

「…飲みにとか行かなかったのか?」
「?だってご飯いっぱい食べたからお腹いっぱいだし…。主任があんまり遅くなるなって言ったんデスヨー??」
「…うん、ああ。」
確かそんな事を言った。
だけどまさかそんな言葉を守って帰ってくるなんて思わなかった。

ヤバイ。
嬉しい。

ここに戻ってきてくれた。
この腕の中にのだめがいる。
笑ってくれる。

それだけでさっきまでのドロドロとした黒いものが消えていって死刑囚のような気分も無くなった。

少し力を込めて抱きしめるとのだめが小さく奇声を出した気がしたけれど構わずにそのまま柔らかな髪に顔を埋めた。

「ふお?主任??どうしたんデスカ??」
「うん…。ちょっとな…。」
「?あ、そう言えばどこか行く途中じゃなかったんデスカ??」
俺の心など知らないのだめは俺の背中をポンポンと叩きながら気がついたらしい事を口にした。
「あ、煙草買いに行こうと思ったけど…。」
そう言った瞬間のだめが一気に体を離した。
そして俺を少し睨む。

「煙草は体に悪いんデスヨ!」

いつか聞いたのと同じ言葉でまるで子供を叱るような顔で怒るのだめに笑みが浮かぶ。
その小さな体に手を伸ばしまた抱きしめる。

「知ってる。だからもういいや。」
「?買いに行かないんデスカ??」
「いらない。」

お前がいれば。

煙草なんかいらない。

他のどんなものもお前ほど俺を癒せないから。

お前が傍に居てくれるなら他の何もいらない。

あっさりと買わないと言わないと思っていたのかのだめは少し拍子抜けをした顔をしたけれど、少し考えた後でニコリと笑う。

「じゃあ、この調子で禁煙しましょう!」
「…いいけど。」
「ホントデスカ??」

「うん。お前が居る限り吸わねーよ。」

それはお前が居る限りそんなものは必要ないってこと。
のだめにはわからないだろうけれど。

長期戦なんて言ってる場合じゃないよな。
本当に欲しいなら手を伸ばさないと、気がつかないうちに誰かに持っていかれてしまう。

そして死ぬほど後悔するんだろう。

…そんなの嫌だから。

だから俺は手を伸ばすよ。

お前が欲しいって。

「家に帰ろう?」
「ハイ!」

小さくて柔らかい手をとって、繋ぐと並んで数メートルの玄関までの道のりを歩いた。

ずっとこうやって居られるように。
小さな頃ののだめもこれからののだめも全部俺のものにしたい。

繋いだ手に力を込めた。

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